さよならなんて一度きりにして

 朝目覚めると見知らぬ女がいた。
 俺のいるベットからそう離れていないところに、こちらに背を向けて座っている。"誰だ?"という言葉がなぜか喉に引っかかって出てこなかった。おかしなことに、全く記憶にないその女の背中を、長い髪を、知っている気がしたのだ。胸の奥から喉にかけてなにか熱いものが込み上げる。なにかを言おうと俺の口は勝手にぱくぱくと動くがそれが音となることは無かった。
 「あら、起きたのね。」
 訳もわからぬ焦燥感に唸っていると、いつの間にやら女はすぐ傍まで来ていた。
 「うおっ!!」
 「なによ、大げさね。」
 思わずびくり、と肩を揺らした俺に向かって女はずいぶんと親しげに話しかけてくる。ふわり、と下に流れるようなスカートを揺らし、腰に手を当ててこちらを軽く睨む。
 「朝ご飯出来てるんだから、早く食べてくれない?あんたってほんと朝遅いんだから。」
 朝ご飯・・・ってことはもしかしなくてもこの女は俺の彼女か・・・?あれ?そもそも俺って誰だ?あ?思い出せねぇ、てか、知らな・・い・・・?
 「ちょっと、聞いてるの?」
 呆れたように女が俺の目を覗き込む。透き通った緑の瞳と目が合う。その瞳に吸い込まれるように、するりと俺の口から言葉が漏れた。
 「お前、誰だ・・・?」
 わずかに零れ落ちたその6文字は奇妙な静けさを持って響いた。思わず口を手のひらで覆うが、時既に遅く、俺の言葉は女の耳に届いたようだった。
 「な、に・・・それ・・・」
 一瞬怒ったような色が瞳に写るがそれはすぐになくなり、瞳からは何の感情も受け取れなくなった。ぎりっ、と細い指が俺の肩に食い込む。鋭い痛みに思わず呻き声が出そうになるのを唇をかみしめて堪える。
 「・・・なんなの?笑えないわよ。」
 うつむき女は責めるような声で俺に問う。言ってはいけなかった、聞いてはいけなかったことだと今更ながら俺は後悔する。女に何も言えず黙り込むがその間にも女の指は肩に食い込み、皮膚を突き破り中に入って来そうだった。
 「なんか言いなさいよ。」
 「・・・悪い・・」
 なんと言ったらいいものか見付からず、意味もない謝罪の言葉を呟くと、女は俺の肩を深くえぐり、顔をこちらに向けず走り去っていった。引き留めるように俺は腕を伸ばすが呼ぶべき名前が見付からず、その手をむなしく布団の上に落とす。
 「なんだってんだよ・・・」
 くしゃり、と自分の頭をかき混ぜる。指の隙間から覗く髪から俺が銀髪であることを知った。自分が誰だかもわからない。本来ならば自分が誰なのかが一番気になるはずなのに、それよりも走り去っていった女のことを知らない方が悔しかった。忘れてはいけなかった筈なのだ。自分よりも、なによりも、忘れてはいけないと思っていた筈なのに、なにも思い出すことが出来なかった。
 女が走りさった方をじっと見つめてみるが、女が帰ってくる様子はない。何をしたらいいのかわからない。おもむろに立ち上がり、壁に立てかけてある鏡を覗き込むと、そこには銀髪、赤目の青年が生気の無い顔で立っていた。この青年が”俺”であるらしい。肩にはあの女が残した爪痕が色濃く残っていた。じんじんと痛む肩が今俺が生きている証のようにも思えた。
「・・・おまえ、だれだよ」
 鏡の中の青年に問いかけるが、答えは返ってこない。無性に胸の奥がざわつき吐き気が込み上げる。わからない、知らない。俺は何処に存在して、生きて、息しているのだろうか。ひゅっ、と喉から空気が漏れる音がした。息がうまく出来ない。苦しい、つらい、頭がわんわんと鳴り始める。
「ッ・・・く、は・・・」
鏡の前でうずくまる。喉に手を当てるがどうにもならない。
 「は、ざまあないな。」
 鏡の中の俺が立ってこちらを見下していた。見慣れぬ軍服に身を包み、冷たい眼差しでうずくまる俺を見ている。
 「自分のこともわからない、なにもわからない、・・・あいつのこともわからない。ほんと最低な奴だな、お前は。」
 ひゅうひゅうと喉がなる。鼓動が早まる。頭が痛い、割れる、壊れる。鏡の中の俺が冷ややかに笑う。嫌だ、聞きたくない、言うな!!耳をふさいだ手のひらから、”俺”の声が滑り込んでくる。
 「お前・・・・生きてるのか?」
 引きつった音が喉から聞こえ、段々もやがかかったかの様に意識が遠のいていく。
 「ギル!?」
 完全に意識が消え落ちる寸前にいきなり身体を強く揺さぶられる。
 「っ!!」
 半ば無理矢理身体を温かい手に引き起こされ、口元になにかくしゃくしゃとうるさいものがあてられる。
 「ギル、息しい。」
 どん、と乱暴に背中を叩かれ、息が突っかかって咳き込む。
 「馬鹿!こういうときは優しく擦るんでしょうが!!」
 新たな声が聞こえ、次いで背中がゆっくりと撫でられる。先ほどとは違う、どこかひんやりとした腕が心地よかった。
 掠れた音を出していた喉が静かになり、俺の口元からなにかがはなされた。くしゃくしゃと音をだすそれは、どうやらビニール袋だったようだ。俺は過呼吸になってたのか、なんてぼう、と考えていると、いきなりごつん、と堅い拳で頭を殴られた。
 「いって!!」
 のろのろと顔を上げると、日に焼けた肌をした青年がこちらを見ていた。黒っぽい髪を無造作に遊ばせているその青年の瞳は、あの女と同じ透き通った緑で、思わず目をそらした。
 「ギル、こっち見ぃや。」
 俺のその動作が気に入らなかったのかその青年が低い声を出す。
 「アントン、落ち着いて」
 背中に当てられていた手が離される。その手はそのままアントン、と呼ばれた緑の瞳の青年の肩に乗せられる。
 「落ち着け?ギルは死のうとしたんやで?」
 その言葉に身体が凍り付く。
 「・・死のうとなんてしてない」
 震える声を隠すように話すがうまくいったかわからない。ただ、青年は眉を不快そうに片方つり上げた。
 「嘘や。」
 「・・・うそじゃない」
 「俺の目ぇ見て言い。」
 ぐい、と襟元を掴みあげられる。
 「アントン、」
 もうひとりが消え入るような声で呟くが青年は何も返さない。
 「・・・知ってたはずや。自分が過呼吸になってるって、わかってる癖になんでなにもしないんや。」
 「アントン・・・やめて。」
 「俺はギルに教えてもらったんやで。過呼吸の時どうしたらええのか。知らないはずないやろ。なんですぐ対処しなかったんや。そのまま死ぬつもりやったんやろ?なぁ、そういうことやろ?なぁ!!」
 「スペイン!!!」
 大きな声を張り上げ、青年の腕を俺から引きはがしたもうひとりは、はっとしたようにこちらを見る。ぼう、と彼を見つめると、彼はひどく傷ついたように目を俺からそらした。
 「・・・アントン、カレはプロイセンじゃないんだよ・・・。」
 プロイセン、そう呟かれた言葉に鼓動が早くなる。どくどくとなる心臓からなにか流れて来ているようだった。熱い、何かが身体を駆け巡る。
 「っ!フラン!」
 「プロイセンは消滅した。ここにいるのはただの人としてのギルベルト・バイルシュミット、プロイセンじゃない。」
 『消滅』フラン、と呼ばれた青年のその二文字にとうとうなにかが頭の中で弾けた。
 「っあ・・・くっ・・・ああぁあ!!!」
 「「ギル!?」」
 今度はなんや!?と慌ててもう一度ビニール袋を俺の口元に当てようとする青年を手で制す。
 消・・滅・・プ・・・ロ・・イセ・・・ン、ギ・・ルベル・・ト・・・バイ・・ルシュ・・ミット・・・?
 「フラン、お前なんかしたんとちゃうか!?」
 「なにもしてないでしょ!アントンこそなんかしたんじゃないの!?」
 フラン、フラン・・・シ・・ス・・・、アントン、アン・・トー・・ニョ・・・
 「そんならなんでギルこんなんなってるんや!!」
 「アントンが乱暴したからでしょ!!」
 「俺のせいなんか!?」
 「それしかないでしょ!!」
 先ほどの剣幕は何処にいったのやら、二人ともあわあわと慌てふためく。
 「っく、け、せせ・・・」
 込み上げる咳を堪え、無理矢理笑って見せる。すると二人は化け物でもみたような顔で俺を凝視してくる。
 「っゴホ・・・そ、んなに見つめ・・ん・・なよ・・・いくら俺様が、格好良いから・・って、な」
 「ギ、ル・・・?」
 フランシスが伺うようにこちらを覗き込む。眉が下がった情けない面に思わず笑みがこぼれた。
 「ぷっすー、お前、情けねー面!」
 人差し指で顔を指さすと、その指をきゅう、と握りしめられる。
 「ギル・・?ギル・・・ぷーちゃん?」
 アントーニョは先ほど怒っていたときとは比べものにならないくらいわごわと俺の肩を掴む。
 「・・・なんだよ、アントーニョ。」
 に、っと笑って見せると、アントーニョは怒ったような、安堵したような、泣きそうな、変な顔をした。
 「なんや、元気やんか・・・ギル・・・」
 くしゃ、というようにアントーニョは笑う。
 「ケセセセ!俺様最強だからな!」
 いつも通り笑うと、フランシスに手を握られ、引き寄せられる。
 「っ!!馬鹿!!!」
 いつもへらへらと笑っているフランシスの顔が肩口に埋められる。
 「ほんっと、馬鹿なんだから!この子は!!」
 ぐず、とくぐもった声が身体を震わせる。
 「・・・ごめん」
 そ、と柔らかい金髪の中に指を通すと、どん、と勢いよく突き飛ばされ、後ろにいたアントーニョに支えられる。
 「あー!!もう、心配して損した!」
 「ほんまやで〜、変な心配させへんで、な。」
 「もう、平気だ。ちょっと俺様この頃もの忘れがひどくてな!!」
 「なんや、アルツなんたらなんやないの?」
 「ギルちゃんも年だね」
 いつもの軽口に、笑い合う。
 思い出した、まだ、大丈夫だ。俺はまだドイツの兄弟、ヨーロッパの強国、プロイセンだ。ここにある。ここに存在している。
 「ギル、」
 ふと、フランシスが笑いを止める。
 「わかってる、ちょっと俺いってくるわ。」
 立ち上がると、まだふらついたがそんなこと気にしていられない。行かなくてはいけない、あいつのとこへ。
 「じゃあな!また今度飲もうぜ!!」
 「そうやな、次はフランのとこで飲もな、いっぱいトマトもってくでぇ」
 「お兄さんも美味しい料理とワイン用意しとくから」
 ひらひらと、二人は手を振る。それにブンブンと振り替えしながら縺れる足を引き立たせ、走り出す。はやく、いかねぇと。


 「・・・」
 フランシスとアントーニョの間には、静寂が流れていた。どちらも動くことはなく、先ほどまでギルベルトがいたところをじっと見つめていた。
 「・・・いつ、とか考えたくないんだけど・・」
 ぽつり、とフランシスが呟く。
 「・・・怖いよ、俺は。」
 もう、あの子みたいに失いたくないんだ。あんな思いは一度で十分だ。
 「・・・そやな、」
 過呼吸で倒れてしまっていたギルベルトの身体を支えていた腕が震える。あの時の身体はまるで死体のように冷たくて、生きた心地がしなかった。
 「なんで・・・消えなきゃいけないんや・・・」
 悔しげに呟いたその問いに、答える声はいなかった。


 当てもな探し回るが、いっこうにあいつは見付からなかった。先ほどから調子の悪い身体ががたがたと震える。
 「はっ、情けねぇ、しっかりしろ。」
 笑ってしまっている膝を手の平でぐい、と押す。こんなところで止まっている暇は無かった。急がねぇと、そう焦る頭のなかに、ある場所が浮かび上がる。俺と、あいつが話したところ、あいつが女だって、俺とは違うのだと、知ったところ。
  「・・・なによ」
 あの時と同じようにあいつは木に寄りかかっていた。あの時と違うのは、あいつがスカートなんて女のものをはいていることと、プロイセンという国はこの世界にはもう存在しないということだけだった。
 「なんでそんな女みたいなのはいてんだよ」
 「はぁ?なに言って---------」
 俯いたままのあいつの顔を無理矢理上げさせる。赤い目許をした透き通る緑のなかに泣きそうな顔をした俺が写る。なっさけねぇ面。
 「よぉ、ハンガリー」
 にぃ、とわざとらしく口角をあげて笑う。すっとハンガリーの瞳が見開かれる。
 「プ、ロイセン・・・?」
 「なんだよ、俺様の名前、忘れたのか?」
 ケセセ、と笑うと、どすっ、と重い拳が腹に入れられる。
 「うぐっ!!」
 「ば、っかじゃ、ないの・・・」
 思わず腹を抱え、前屈みになった俺の頭をハンガリーの細い腕が掴む。
 「忘れるわけ、ないでしょ・・・・」
 そのまま頭をぎりぎりと締め付けられる。
 「いってててて!!!」
 ハンガリーの手を掴むと、案外簡単にその手は離される。俯いたハンガリーの綺麗に巻かれた髪がわずかに震える。
 「・・・・ギ、ル・・・」
 聞こえるか聞こえないかのギリギリの声でハンガリーが言う。俺は震えるその小さな頭を自分の胸に押し当てた。そっと抱きしめると、おずおずと言うようにハンガリーが背中に腕をのばし、俺の服を握る。
 「・・・エリザ、」
 「っ、ばか・・・」
 「・・・ごめん、もう忘れねぇなんて言えねぇけど、・・・お前を知らないって気づいた時、死にたくなった。自分を知らない時よりショックだったぜ」
 俺様、健気すぎるぜ、と笑うが、エリザは顔を上げようとしなかった。
 「・・・エリ------」
 「次、」
 もう一度呼ぼうとしたとき、エリザが顔を上げてキッと睨んできた。
 「次、・・・私のこと”誰?”なんて聞いたら、あたしがアンタを殺すから。」
 覚悟しとくのね、と言い、ふてくされたようにまた俯く。強気なエリザに、顔がにやける。こいつはこうじゃないとな。
 「こっえぇ、ぜってぇ忘れらんねえな。」
 俺より一つ小さい栗色の頭に、そっと気づかれないようにキスを落とした。

 絶対忘れない、なんて言えない。
 今回のことがいつまた起こるかわからない。それでも俺は、プロイセンは今、ここにある。ここに存在している。

たとえ消滅する運命であっても、それまで俺はこいつを守ると決めたのだ。


    END


  *おまけ

「っ!いつまでくっついてんのよ!!邪魔!!」
 どごっ!ばきっ!!
「いってぇ!!お前なぁ!!」
「ふんっ」


「兄さんっ!」
「おー、ヴェスト、なんだぁ?」
「今日の午後、兄さんの気が消えたんだがなにかあったのか?もしかして事故にあったのか?身体は大丈夫なのか?まったく、兄さんはいつも無茶するから気がきじゃないんだ。そもそも昨晩は何処にいってたんだ?外出するときは携帯に連絡するか、置き手紙を残すかしてくれ。なにも連絡無くどこかに行かれると気苦労が・・・いや、心配するだろう。それと・・・・」
「・・・ヴェ、ヴェスト・・・・?」
「やっぱり、携帯にはGPSが付いたものがよかったのか。いや、それでは携帯が無いときに不便だな、やはり肩辺りに埋め込むしか---------」
「ヴェストぉぉぉ!!!!」